NTN
軸受大手メーカーのNTNが、iPS細胞(万能細胞)由来の心筋細胞を高効率に培養する微細塗布装置を開発した。高精度な位置決め技術で細胞を培養プレートへばらつきなく高速に塗布し、iPS細胞による創薬(新たな医薬品の開発)を支援する。日本発のイノベーション(技術革新)であるiPS細胞は、人体から容易に採取できる皮膚などの細胞が多様な組織や臓器に分化する。臓器の再生医療としてだけでなく、創薬での期待が強い。iPS細胞から臓器の組織を培養すれば、人体の組織を使わず医薬の効能や毒性を容易に実験できる。しかしiPS細胞の培養は高額な機器と技能が必要で、高いハードルとなっている。微細塗布装置は従来の培養に比べ、創薬の実験コストを大幅に削減できる有望性がある。軸受で培ってきた固有の精密技術を生かし、2028年以降に量産を目指す。【2025年11月28日付】
NTNは微細塗布装置による実験で、約1万個のiPS心筋細胞を培養プレートの凹み一つずつに塗布した。凹みは直径3~6ミリ・深さ10~13ミリメートルで、培養プレートに96カ所ある。装置は水平と上下にスライドする精密制御により、先端70マイクロメートル(マイクロは100万分の1)の塗布針を±15マイクロメートル以下の精度で凹みの定位置へ移動させる。塗布針は細胞の混合液を入れた数ピコリットル(ピコは1兆分の1)の容器に漬かり、容器の下穴を通り低荷重か非接触で凹みへ細胞を付着させる。表面張力により、下穴から液体はこぼれない。塗布の速度は1回0.1 秒。この精度とスピードが実験コストを低減する。装置は一辺が20センチメートル程度で取り扱いやすい。 従来の自動装置は液体を圧送するため塗布針と異なり微細な操作が難しいほか、液体を通す管が目詰まりしやすい。スポイトにより手作業で塗布する場合も、技能でばらつきが生じる。このため高価なiPS細胞の損失数が増え、コストも増す。NTN未来創造開発本部要素技術開発部の大庭博明主査は「実験と同じ数量のiPS細胞を載せると、従来の培養プレートでは30万~60万円かかる」と説明する。時間とコストの負担が創薬初期の関門となっている。微細塗布装置ならば機械とソフトウエア制御で再現性の高い精密な自動塗布を繰り返せるので細胞を節約し、使用量を従来比80%減らせる。塗布できる面積と液体粘度の範囲も従来装置並みか上回る。粘度は水道水から水あめまで適用する。 自動車の車軸・車輪と産業機械の軸受を主力製品とするNTNが、なぜiPS細胞なのか。さかのぼると、2000年代に手がけた液晶ディスプレーの発光色の欠陥を修正する大型装置にたどり着く。ディスプレーは製造工程で微細な異物が侵入する場合がある。大型装置は高精度な位置決めで欠陥箇所の異物をレーザー除去しインクを塗り、修正する装置だった。世界一の販売を誇ったが、顧客の日本メーカーが液晶ディスプレーの国際競争力を失いNTNも大型装置から撤退を余儀なくされた。しかし技術をあきらめず、接着やシールの粘着剤を塗布する微細塗布装置に用途を転換。改良して塗布時間を数秒から0.1 秒に高速化し、製造時間の短縮が求められる電子部品の溶剤塗布向けなどで事業の命脈を保ってきた。NTNの軸受は回転軸を支え医療機器などにも使われる精密部品で、機械を精密に動かす機構と高精度な製造が求められる。微細塗布装置の位置決め技術は、そうした長年の軸受事業で培ってきた。機械軸の回転と角度を変え搬送や外観検査ができるNTNの省力化機械事業も、精密技術が基盤となっている。需要があると信じあきらめず改良を重ねた末に、iPS細胞のライフサイエンス(生命科学)事業へたどり着いた。 iPS細胞に挑んだきっかけは、大阪大学との産学連携だった。NTNは17年から阪大と共同研究し、先進的なライフサイエンスの知見を新事業に取り込む試みを続けている。iPS細胞の微細塗布装置は、阪大大学院工学研究科に設けたNTN次世代協働研究所での連携成果から生まれた。iPS心筋細胞は培養プレートの凹みで凝集を始め、1~2週間かけ組織に分化し半球状の均質組織を形づくる。心筋細胞特有の横紋構造や拍動が発生し、凹みに薬剤を入れると心臓への効能や毒性を間接的に調べられる。凹みの数だけ創薬実験ができる。凹みの底に電極を設置すれば心筋細胞の拍動による電気信号を測定でき、脈拍の変化や不整脈も確かめられる。微細塗布装置は人手の塗布に比べ均一に塗布できるため、ばらつきなく電気信号を測定でき実験回数も減らせる。 ©copyright 心筋は創薬や再生医療の主要テーマでガンになるリスクも低いとされ、微細塗布装置による初めての実験対象とした。NTNは神経細胞、繊維芽細胞、血管内皮細胞、肝細胞、乳ガン細胞のiPS細胞も塗布できるとみている。用途では創薬のほか化学薬品、食品、化粧品を視野に入れる。26年3月に開発を終え、品質と保証体制を整え28年から量産開発に取り組む。医学をサポートする事業であり、高い信頼性が欠かせない。NTNにとりライフサイエンスは未知の事業で、市場開拓は試行錯誤が予想される。大庭主査は「関係する学会や研究会で実験成果を発表しており、顧客の想定先として製薬や試薬、評価試験の受託企業、評価試験機メーカーと接触している」という。 日本の大手軸受メーカーは自動車市場への依存が高く、米国による高関税や機械部品の搭載点数が減る電気自動車(EV)の増加で先行きは厳しい。イノベーションによる事業創出がこれまでになく求められる。NTNが挑戦するイノベーションからは必ずしも新技術である必要がなく、得意な固有技術の幹から異なる方向に枝葉を伸ばす発想と継続の重要性がみえてくる。たとえ開発が完了しても量産にたどり着くまで、「死の谷」や「ダーウィンの海」と呼ばれる試練も待ち受けている。iPS細胞の研究が広がる海外を含め、従来にない専門的な企業と協業が欠かせない。M&A(合併・買収)で買収先の技術を買うだけではイノベーションは難しく、日本製造業の復活の道は遠い。自ら思い通りに伸ばせる技術で解決できる社会課題は何かを探索し、腰を据えた事業戦略が待ち望まれる。